1-1.デザイナーと企業家の出会い : コーポレート・アイデンティティ研究

HOME > C.I.の成立と展開 > 1-1.デザイナーと企業家の出会い

第1章 コーポレート・アイデンティティの成立

イギリスの産業革命を契機として大量生産と大量販売が盛んになり、視覚的な統一化とブランドの重要性が高まった。そして企業体は、デザインを商業上のコミュニケーションの道具として利用し始める。しかし初期 のコーポレート・アイデンティティにおいては、現代のそれに見られるように高度に体系化されたものではなかった。
 本章では、複雑化して行く社会の中でコーポレート・アイデンティティ手法がどのように発生し、今日的な意味でのコーポレート・アイデンティティのような体系化された手法となっていったのか、その成立までを追う。

1-1. デザイナーと企業家の出会い ペーター・ベーレンスとAEG

<コーポレート・アイデンティティの原点>

ペーター・ベーレンス(Peter Behrens, 1968-1940)とAEG(Allgemeine Elektricitätes - Gesellschaft=アルゲマイネ電気会社)の関係は、近代において最初の、芸術家と産業の理想的な結びつきと言われるが、その理由はどこにあったのか。20世紀初頭のドイツで行われた芸術家=ベーレンスと産業=AEGのコラボレーション、またそれに大いに影響を与えたヘルマン・ムテジウス(Hermann Muthesius, 1861-1927)についても検証し、コーポレート・アイデンティティの原点を探る。

 技術者で実業家であったエミール・ラーテナウ(Emil Rathenau)は、1881年パリで開かれた「国際電気博覧会」でエジソンの炭素電球を見て、ドイツにおけるこれの使用権を買収し、1883年に「ドイツ・エジソン応用電気会社」を設立した。そして1887年には「AEG」へと改称する。20世紀に入るとAEGはドイツにおける大規模な国際カルテルのひとつとなり、電気事業を行う最も大きな企業のひとつに成長した 。
 このような大規模な企業には、国益の観点からも輸出振興を強いられることになる。国際市場におけるシェア獲得の戦略として眼をつけられたのが、今日で言うところの「インダストリアル・デザイン」であり、それに気づいたAEGの工場長・建築顧問であったパウル・ヨルダン(Paul Jordan)は、ペーター・ベーレンスの起用を促した。ヨルダンは「技術者自身が電動機を買い入れるとき、これを分解して調べると思いますか。専門家である彼でさえ外面によって買い入れるのだ。電動機も誕生日の贈り物のように見えなければならない 。」と述べたとされる 。
 一方ベーレンスは1868年ハンブルクに生まれ、1892年にミュンヘン分離派の設立に参加し、ドイツにおけるアール・ヌーヴォー、ユーゲントシュティールの芸術家として活動した。ユーゲントシュティールの運動は、その自然にモチーフを求めた装飾様式に注目されることが多いが、むしろ重要な側面は歴史様式からの決別と機械生産への関心にあったといえる 。後のベーレンスの産業を前提とした芸術活動を考えると、おそらく彼もそういった精神に共感したのではなかったか。
 1898年には、タイポグラフィからイラスト、装丁にいたるまでのデザイン全体に力を入れたドイツで最初の愛書家向け雑誌『パン』の編集に参加し、そこではユーゲントシュティール特有の曲線タッチによるイラストなどを公開している。(図1-1-1)また、この頃から家具、カーペット、織物、ガラス器、陶器などのデザインを行うなど、既に多方面にわたってデザイン・マネジメント能力の可能性を垣間見せている 。
 1899年ダルムシュタット芸術家村においてベーレンスは、初めて建築に携わり、建物から家具、食器にいたるまで包括的にデザインした自邸を完成させた。このときに彼はコンセプトを具体的な形に結びつけ、且つ全体的な調和をはかることの厳しさを知った。ベーレンスは後々にこの課題を産業の分野に応用することになるが、その布石がここにあったとも言える。その後ベーレンスは、徐々にユーゲントシュティールの装飾的なデザイン様式を脱し、芸術と産業との再統一を目指すデザインへと向かって行った 。(図1-1-2)

 1903年、後に彼の思想に大きな影響を及ぼすことになるプロイセン商務省官吏のヘルマン・ムテジウスに出会い、彼の命によってデュッセルドルフ工芸学校校長に就任。そして1907年、前述のパウル・ヨルダンの推薦により、ベーレンスはAEGの芸術顧問に就任するのである。また、ほとんど時を同じくして、芸術と産業の再統一を企てた「ドイツ工作連盟」に参加している。ムテジウスはドイツ工作連盟の指導者的立場にあり、彼の提示する「ザッハリヒカイト 」(Sachlichkeit)の理念は、装飾を抑制し実用性を重視したデザイン理論で、実用的な美を追求していたベーレンスもその理念を受け入れたのである 。
 インダストリアル・デザインの重要性を早くから見抜いたヨルダンは慧眼であったと言えるであろう。彼は工場責任者・建築顧問であったと同時に、現代でいうところのマーケッター(市場開拓者)でもあった。一方でマーケティング担当者は、あまりにも経済優先主義に陥ってはならない。AEGの場合、創業者エミール・ラーテナウの後継者、ヴァルター・ラーテナウ(Walter Rathenau)は、そのバランス感覚を併せ持っていたと言える。すなわち、彼はAEGの完全な組織化と合理化を目指しており、ベーレンスに与えられた課題は生産コストに繋がる製品のデザインはもちろん、企業と労働者の精神的統合と規律、およびそれによって生み出された製品への信頼性という概念に形を与えることであった。つまり、工業生産に精神的、文化的な意義を付与するために、優れた芸術性を強く要望したのである。これに応えたベーレンスの仕事によって、同社とその製品は統合された性格を得た。ベーレンスの仕事が、原初的な意味でのコーポレート・アイデンティティの歴史の原点であると言われる所以である 。
 ベーレンスによるAEGの概念に形を与えるという仕事は、卓上扇風機(図1-1-6)や電気湯沸かし器(図1-1-7)などの製品デザインはもちろん、1908年の造船展のパンフレット(図1-1-8)や広告制作で行ったグラフィックデザイン(ベーレンス・ローマン体などの書体デザインも含まれる)(図1-1-3、1-1-4、1-1-5、1-1-8)、1909年の有名なタービン工場(図1-1-9)を初めとする建築デザインなど多岐にわたり、また時間的にも一貫して継続された(1907-1914)。AEGにおけるベーレンスの業績は、個々のデザインの優秀さのみならず、ジャンルを超えた文脈の中でのデザイン・マネジメント術として評価されるべきである。1914年ベーレンスとAEGとの契約は終わるが、この後も断続的な関わりはあった 。

<初期コーポレート・アイデンティティ発祥の背景>

 18世紀から19世紀のイギリスにおける産業革命や、その結果として現れてきたアーツ・アンド・クラフツのような工芸運動は、ヨーロッパの周辺諸国に大きな影響を与えた。ドイツもまた、最も影響を受けた国のひとつと言える。前述したように、建築家でもあったプロイセン商務省の官吏ヘルマン・ムテジウスは、1896年から1903年にロンドンの大使館に勤務し、その間にアーツ・アンド・クラフツ運動から大きな影響を受け、1904年に『イギリスの住宅』(Das englischer Haus)を刊行する などして、ドイツにおける同運動の紹介者となった。ムテジウスは1907年には、ドイツの近代産業の育成を目指した「ドイツ工作連盟」の設立に関わったのだが、そこには国家主義の片鱗が見て取れる。おそらくイギリスの国力がその産業力のみならず文化力にあることを大使館在任中に悟ったのであろう。彼は芸術と近代産業の統一を構想し、博覧会や見本市への尽力によってドイツの国力をアピールした。ベーレンスはムテジウスに同意してAEGの企業イメージを作り上げたが、AEGのような国際化企業が競争力を持つためには、その製品の性能・品質・サービスを保証、同定する「企業のアイデンティティ」を必要としたと考えられる。これこそが初期コーポレート・アイデンティティの発祥の背景であった。
 しかし今日的な意味でのコーポレート・アイデンティティは、後述するように当時よりも複雑化した社会環境が背景にある。当時は製品が優れていることを造形的に表現し、企業を同定する機能としてのコーポレート・アイデンティティであった。しかし後年どの国においても技術力が発達し製品品質に大きな差異がなくなって行く中で、企業の技術・生産力に加えて、文化的情報の発信能力を重要視しなければならない時代が訪れるのである。