1-2.1930〜1950年代前半 : コーポレート・アイデンティティ研究

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第1章 コーポレート・アイデンティティの成立

1-2. 1930〜1950年代前半

<バウハウスの影響>

 20世紀前半は二度の世界大戦によって芸術と産業に打撃が及び、他方その反動としての芸術文化運動や、復興期の飛躍的な産業の発展が見られた時期である。
 前節で記したベーレンスとAEGのような、デザイナーと企業の理想的な結びつきの例は、第一次世界大戦(1914-1918)の混乱を迎えてしばらく見られなくなる。しかし1919年になると、ドイツのヴァイマルにはバウハウスが設立され、芸術と産業の結びつきへの意識が再燃してくる。当初建築を中心に据え、職人の手仕事を重視していたバウハウスは、ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius, 1883-1969)が校長を務めた時代から1933年の閉校まで多様な変化が見られるのだが、最もドラスティックな変化があったのはグロピウス時代にデ・ステイル運動のテオ・ファン・ドゥースブルフ(Theo van Doesburg, 1883-1931)との接触があった時であろう。デ・ステイルのモダニズムを体現するような造形思想は、その後のバウハウスのデザインに対するザッハリヒな姿勢に大きな影響を与えた。コーポレート・アイデンティティのデザインは、個人的な芸術の概念というよりはどちらかと言うと最大公約数的な美的評価を理想とするため、バウハウスが実践したような普遍的なデザイン理論を必要とした。そのバウハウスで活躍したグラフィックデザイナーたちが、後のコーポレート・アイデンティティの構成要素であるところの、即物的な図形やタイポグラフィの理論を完成させたのである。H.バイヤー(Herbert Bayer, 1900-1985)のユニヴァーサル・アルファベット(1925)(図1-2-1)、ヤン・チヒョルト(Jan Tschichold, 1902-1974)の『ディ・ノイエ・ティポグラフィ』(1928)(図1-2-2)などが提示したデザイン理論は、即物的で機能主義的であるが故に普遍性があるという認識を与え、クライアントを理論的に説得する必要があったグラフィックデザイナーたちに多大な影響を及ぼした。

 そういった第一次世界大戦後の芸術文化的背景を受けて、1930年代よりコーポレート・アイデンティティの芽は確実に育ってくる。しかし軍事政権下では自由な企業活動が阻まれたためか、まだ顕著な事例が現れるには至らなかった。
 第二次大戦が近付くにつれファシズムが台頭し始める。ドイツのナチスにおける政治的なデザインの利用は、大規模な「民族のアイデンティティ計画」であったと言えるかもしれない。しかしトーマス・ハウフェ(Thomas Hauffe,)は著書の中で「ナチズムは日常美学と生産美学においてもイデオロギー的な統制を求めた。…第三帝国におけるデザインは、しかし詳細を見るとデザインのすべてがナチのイデオロギーにおいて重要な役割を担っているという、明らかなパラドックスに特色づけられていた。常に使用目的に従って歴史記述様式ならびに近代様式が使用されたり組み合わされたりしており、したがっていずれにせよオリジナルなナチ様式について語ることはできない 。」と書いており、後のコーポレート・アイデンティティ手法に資する事例となったかは判断の別れるところである。
 1945〜1955年頃になると、徐々にではあるが組織的なコーポレート・アイデンティティ計画も芽を吹いてきた。しかしこの時代のコーポレート・アイデンティティは、ベーレンスとAEGの関係のような、強い個性を持ったデザイナーが芸術に理解のある企業家の協力によって、企業イメージを牽引していくという形をとることが多く、組織的なデザイン計画から企業のアイデンティティを訴求するというわけではなかった。ただし、この時代における事例が多数のデザイナーと企業に「経営におけるデザインの力」を見せつけ、後発を大いに刺激することになったことは事実である。この時期をコーポレート・アイデンティティの草創期ととらえ、後年に大きな影響を与えた事例を検証する。

<オリヴェッティ社>

 タイプライター、事務機器メーカーとして知られるイタリアのオリヴェッティ社の創業者カミッロ・オリヴェッティ(Camilo Olivetti)は、米国スタンフォード大学で教鞭をとった経験があるが、その中で米国の工業製品の先進性に感銘を受けた。とりわけ、文字を書いたり計算するという作業が人間に取って代わる時代がくることを予感したという。
 1908年カミッロは祖国イタリアで企業を起こすのだが、多くの企業がミラノ近郊に工場を集中させる傾向があったにも関わらず、彼はある考えのもと、アルプスのふもとでスイス国境にほど近い田舎町ブレイアを選んだ。ここはカミッロの故郷だったのだが、彼の息子で1938年から社長に就任したアドリアーノ・オリヴェッティ(Adriano Olivetti, 1901-1970)がそこで取り組んだのは「地域社会の都市開発」であった。人間が抑圧されず自由に作業ができるように工夫された総ガラス張りの工場は1938年に建設された。この工場を中心にそこで働く人々の社宅、医療設備、レクリエーション施設、幼稚園などのコミュニティ形成に必要なすべての関連施設が、周囲数キロにわたって整備された。これは世界でも最初のコスモ・ポリシー(企業による都市計画)の実現だと言われる。
 創業者カミッロは、企業は社会に対して単に物質的な貢献をするばかりではなく、精神的、文化的、道徳的な貢献をしなければならないと考えていた。後継者アドリアーノはその理念を実現するべく、単に物をつくるという機能をもった工場だけでなく、従業員やその家族、関係者との小社会を形成して行くべきだとの信念を持って、イブレア工場を整備したのだった 。企業と地域社会とのよりよい結びつきや社会的責任といった、現代の企業が直面している課題を、慧眼な両経営者は予見していたと言える。
 また、そういった企業風土は、社員の創造性を向上させる。アドリアーノは、企業の経営者は今後デザインに対しての理解が必要であると考えた。ことに工業デザインの分野において、オリヴェッティ社の企業イメージは強く印象づけられた。チーフデザイナーの地位にあったマルチェッロ・ニッツォーリ(Marcello Nizzoli, 1887-1969)は、オリヴェッティ社の製品デザインイメージの源流をつくった。彼は製品の見た目の処理だけでなく、製品の外部と内部の分離生産方式を考案し、コストとリスクを抑え、大量生産を前提とした機能美の実現という業績を残したのだった。この流れはその後、真っ赤なタイプライター「バレンタイン」(図1-2-3)をデザインしたエットーレ・ソットサス(Ettore Sottsass, 1917-)、計算機市場で注目をあびた「プログラム100」「ロゴス」(図1-2-4)シリーズを手掛けたマリオ・ベリーニ(Mario Bellini, 1935-)、そしてマルコ・ザヌーゾ(Marco Zanuso, 1916-)らへと受け継がれており、彼らは後に世界的な工業デザイナーとしての名声を得ることとなった。
 グラフィックデザインの領域では、1936年に弱冠24歳のジョバンニ・ピントーリ(Giovanni Pintori, 1912-)がオリヴェッティ社の広告部門に採用され、31年ものあいだ同社のグラフィックイメージを作り続けた。彼は広告と販売を担当し、ショールーム、パンフレット、広告塔に至るまで、オリヴェッティ社の企業イメージを作りあげている。これらの作品がオリベッティ社という会社に勤務しながら作られたということが、いかに経営者にデザインへの理解があり、創造的環境が整備されていたかを示している。
 理想的な企業イメージを作り上げて行った当時のオリヴェッティ社であったが、現代のコーポレート・アイデンティティ手法のシステムを既に持っていたのだろうか。
 オリヴェッティ社のコーポレート・アイデンティティについて『DECOMAS経営戦略としてのデザイン統合』の著者は、数ある世界企業の中にあってオリヴェッティ社がDECOMASの先駆者として呼ばれるにふさわしいとしながら、次の注目点を指摘している。
 「…米国企業は展開、管理の手法において、システム志向が非常に強く、これに対しOlivettiはいっそう感覚的であり、人間中心主義であるといえる。(中略)つまりOlivettiのDECOMASは、米国企業に多く見られるような、マニュアルを中心とした展開ではなく、あくまで人を教育し、そのデザイン水準を高め、意識の問題から自社のポリシーを貫いていこうとするやり方がとられている。そのため、現れてくる個々の形が単なる形の問題にとどまらず、どことなくOlivettiらしさをもっているといった、強い企業の精神性の反映・結晶化としてとらえられる点に注目する必要がある 。」というのである。
 筆者が見るところによると、1947年にピントーリはオリヴェッティ社のためにすべて小文字からなるサンセリフ体のロゴタイプ(図1-2-5)をデザインするが、このロゴタイプは1956年の「Elettrosumma 22」のポスターではイタリック(斜体)となり、場合によって変形することを許容している(図1-2-6)。このことからも『DECOMAS』の著者の指摘は頷ける。それでもオリヴェッティ社の企業イメージが訴求できているのは、ピントーリ始めポスターデザインに関わったデザイナー個人の才能に頼るところが大きい。
 つまり、オリヴェッティ社の当時のコーポレート・アイデンティティは、結果として理想的な効果を産み出したが、その過程はデザイナーと芸術文化に理解のある企業家という、前節のペーター・ベーレンスとAEG社の関係に近いものであった。ただしピントーリだけでなく複数のデザイナーが関わりそれぞれが後年著名になるなど、AEGの事例よりも注目を浴びる成功例となった。また後年のオリヴェッティ社においては、時代の要請により体系的なコーポレート・アイデンティティの手法がとられた。

<アメリカとレイモンド・ローウィ>

 第二次世界大戦前のアメリカにおける工業デザイン界では、1919年にパリからニューヨークへ渡ったレイモンド・ローウィ(Raymond Loewy 1893-1986)が、百貨店のショーウィンドゥデザイナーなどを経て1929年にウェスティングハウス社のアートディレクターになる。同年自らの会社を設立してゲステットナー社から謄写機の外観デザインを依頼され、これに続いて冷蔵庫、自動車、機関車など多数の企業からの注文を受けた 。彼は1930年代に工業デザインにおけるストリーム・ライン(流線型)の作風の代表者となり、製品の外観(スタイリング)によって販売が促進されるという信条を主張した。同時にマーケティング・リサーチを頼りに莫大な広告費を用いて新製品を市場に出しており、それはスタイリング重視のデザインとともに、機能主義者によってしばしば非難された。一方で、商標のデザインによるグラフィック・デザインへの貢献も大きく、1942年のラッキーストライクのパッケージや、石油コンツェルンのBP社、エクソ社、シェル社の商標デザインも行った。デザインのアメリカ的解釈を代表するデザイナーとも呼ばれたが、日本のたばこ「ピース」のパッケージデザイン(1952)をはじめ、不二家の商標(1961)など、日本でも活躍の場を持った 。
 ローウィは数多くの企業のデザインコンサルタントをつとめたが、企業の倫理観や思想を示すアイデンティティを形成するための厳格なデザインシステムの開発というより、消費者の欲求に応える外観をデザインすることによる製品の直接的な販売促進において評価された。ローウィが工業デザインで一時代を築いたにも関わらず、デザイン評論家として国際的に活躍した勝見勝は、オリヴェッティの企業イメージ形成に貢献したニッツォーリを評価して「アメリカのレイモンド・ローウィ一派のような商業主義の走狗とは全く趣きを異にした存在といえる 。」という表現を残している。ローウィに対する、コーポレート・アイデンティティの成立と発展に関する我が国での社会的な評価は低いと言わざるを得ない。一方、外務大臣および経済企画庁長官を務め実業家でもあった藤山愛一郎が「ローウィ氏は各自が製作する製品をもっと美しくしなければならず、また美しくすることによってコストも低下できると主張する。そしてローウィ氏自身の作品がそれを如実に物語っているのである。(中略)幸いにしてローウィ氏は日本の商業美術に良き暗示を与えてくれた。感謝して良いと思う 。」と好評しているのは対照的である。
 本論においてもローウィを取り上げるかどうかは迷ったが、産業デザイン界に多大な足跡を残したことは事実であり、機能主義的なコーポレート・アイデンティティ手法と対比する資料として取り上げた。

<CCA社 前期>

 1926年にシカゴの企業家ウォルター・P・ペプケ(Walter P. Paepcke)によって創設された梱包材生産会社CCA(Container Corporation of America)社のコーポレート・アイデンティティの事例は、戦前から始まり1976年にモービル・オイル社に売却されるまで、長期にわたってデザインを理解し支援した企業として位置づけられる。しかしその期間は長期にわたり、企業の経営環境も変化したため、大きく前・後期に分けて考えたほうが理解しやすいと考える。前期は第2次大戦中から戦後にかけて、1936年にエグバート・ジェイコブソン(Egbert Jacobson, 1890-1966)を招聘してアメリカのモダンデザインの発展に寄与した時代。そして後期は1957年にデザイン部長ラルフ・エッカーストロム(Ralph Eckerstrom)によってデザインされた新しいロゴを用い、同年にCCA社に入社したジョン・マッシー(John Massey, 1931-)によって高度にシステム化されたコーポレート・アイデンティティを展開した時代である。ここでは時系列に合わせて前者のみ取り上げ、後期は次章で取り上げる。
 1936年からのジェイコブソンの時代は、コーポレート・アイデンティティと言ってもまだシステム化されておらず、ペーター・ベーレンスによるAEGのデザイン計画と同様に、CCA社の新しいデザイン計画とその実行は、デザイナー自身のヴィジョンと、それを支えるクライアントという関係で成り立っていた。ジェイコブソンは色彩の専門家としての素養を身につけており、工場のインテリアを灰色や茶色といったくすんだ色使いから明るい色へと変えていった。さらに新しいロゴをデザインし、フツーラ体を用いた一貫したフォーマットと、黒と黄褐色とを組み合わせた基準色を使って、事務用品や送り状をデザインし直したのである。
 またデザインを必要とする仕事についてはデザイン部長の指示をあおぐように指示を出した。その結果、社外において注目を集めたばかりではなく、社内においてもデザインに関する関心が高まってきた。生産コストだけでなく、デザインの良否の見分けもつくようになり、社内一般の目が肥えた。さらに、顧客の態度の変化がおこる。進歩的パッケージデザインの価値、デザインのよいものが売れ行きもよいことを認め、デザインの改良をCCA社に相談する注文主が多くなってきた。
 経営者ペプケは、バウハウスに対する関心を長年持ち続けていたデザインの支持者であり、保護者であった。アメリカに渡ったモホリ=ナギ(Laszlo Moholy-Nagy,1895-1946)が創設したデザイン研究所への物心両面の援助を惜しまなかった。またアスペン国際デザイン会議の後援を行うなどデザインの本質的理解者であった。
 このようなCCA社のデザインに対する姿勢は、タイム誌、フォーチュン誌、ビジネスウィーク誌などへのシリーズ広告によって最も知られるところとなる。広告は時代によっていろいろなテーマが取り上げられた。1930年代末〜43年頃の戦時下では戦争シリーズ。1944年頃からは国連シリーズとして国連加盟各国のデザイナーを登用。1947年頃からは合衆国シリーズとしてアメリカ各州の代表的デザイナーを登用した。1950年から1958年には、西洋の智慧シリーズ(Great Ideas of Western Man)と銘打って、西洋の哲学者、文学者、芸術家などの言葉や文章をテーマに自由なデザインが試みられた。これらの広告の制作にはハーバート・マター(Herbert Matter ,1907-1984)、マン・レイ(Man Ray,1890-1976)、ハーバート・バイヤー(Herbert Bayer,1900-1985)、ポール・ランド(Paul Rand,1914-1996)、マックス・ビル(Max Bill,1908〜1994)、ソウル・バス(Saul Bass,1920-1996)など、当代の錚々たるデザイナーが名を連ねた。一定のテーマを与え、デザイナーの自由な表現にまかせる手法は変化に富む作品が生まれ、新鮮な印象を維持できたのであった 。しかしながらそのコーポレート・アイデンティティ手法が抱える問題点は、次にあげるCBS社の事例で明らかとなる。

<CBS社>

 CBS(Columbia Broadcasting System)社の設立は1927年であったが、第二次世界大戦の勃発によって、本格的なテレビの普及は50 年代に持ち越された。1951年11月16日に、ニューヨーク市のCBS社のロゴが同社のテレビ局から放映された。1940年に同社アートディレクターとなったウィリアム・ゴールデン(William Golden, 1911-1959)がデザインした新しい同社のロゴは、後に「CBS eye」と呼ばれる「目」の形だった 。(図1-2-9)
 会長ウィリアム・パーレイ(William Paley)に見込まれ、1946年に37歳の若さで社長に就任したフランク・スタントン(Frank Stanton)は、就任後もパーレイとの連携でCBS社の企業イメージを創り続けた。スタントンは特にデザインが企業経営に及ぼす潜在力を理解し「私たちはデザインの分野にいちばん注意を払った。私たちは自分の会社が進歩的であるばかりでなく、外に対しても進歩的に見えていると信じている 。」と述べている。
 しかしCBS社のコーポレート・アイデンティティもまた、統制されたデザイン計画というよりも、CCA社のそれのように、継続的に行われる個々のデザインの質の高さによってコーポレート・アイデンティティを成功裏に確立したのであった。例えばCBS社の商標の使用に関しては、独断的な一貫性は不必要とされた。ゴールデンも彼のスタッフも、ロゴがそのデザインの他の部分と調和しない場合には強制を避け、省略されている。(図1-2-10)
 同社の広告に対する思想と取組みは、1940年代後半から1950年代前半に現れた。1946年には若いアートディレクター、ルー・ドーフスマン(Lou Dorfsman, 1918-)が採用され、CBSラジオの広告で才能を明らかにした。自由な制作を認める同社の雰囲気はアンディ・ウォーホル、ベン・シャーンらといった画家たちにイラストレーションの依頼を喜んで受けさせ、芸術性の高い広告が制作された。(図1-2-11)
 CBSでは広告代理店を使わず、社内のグラフィックデザイナーによって広告が制作されたために、広告と他の制作物のあいだに統一した取組みがなされた。経営者スタントンのデザインの重要性に関する認識は高く、1951年にゴールデンがCBSテレビ網の広告・販促担当の制作本部長に任命され、1954年にはドーフスマンがCBSラジオ網の広告.販促担当の長に任命されている。近年、経営責任を持つデザイン担当者が現れてきているが、CBS社はその先駆者でもあったのである。
 CBS社のコーポレート・アイデンティティの手法は、ひとつのシステムやスタイルに固執して企業イメージを形成するのではなく、デザイン担当者の制作能力に依存するという経営方針であった。このことについてフィリップ・B・メッグス(Philip B. Meggs, 1942-)は、次のように指摘している。
 「この取組みの力強さは、企業のニーズや感受性の変化とともに移りかわることのできる、多様で動的な企業デザインにある。ということは、もし経営もしくはデザインの実権が洞察力に欠ける人々の手に移るならば、もはや後退する場所はない、という潜在的な危険性もはらんでいるのである。 」
 この指摘は当を得ているであろう。そういった反省と危険性への防御の必要から、コーポレート・アイデンティティは複雑に体系化、構造化して行く。次節に述べる1950年代のコーポレート・アイデンティティの事例は、まさにその弱点を補おうとするものだった。