1-3.1950年代後半 : コーポレート・アイデンティティ研究

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第1章 コーポレート・アイデンティティの成立

1-3. 1950年代後半

 第二次世界大戦は、ほとんどの国、ことにドイツ、イタリア、日本といった敗戦国の文化と産業を停滞させてしまった。しかし中立国スイス、および唯一の戦勝国アメリカにおいては文化と産業の発展は続いていた。戦後の復興期となる1950年代から1960年代は、世界的な産業の拡張期であるが、戦災を逃れたこれらの国が先導する役割を担ったと考えられる。
 産業の発展は市場の拡大を意味し、より複雑な社会における企業とその製品、サービスの同定が必要とされる。この環境変化への順応が、より高度化されたコーポレート・アイデンティティ・システムの開発へとつながったのであった。

<CIBA社>

 1840年アレクサンダー・クラベル(Alexander Clavel)がスイス・バーゼルで始めた絹染色事業は、合成染料の開発・製造に発展。1884年、Society of Chemical Industry in Baselという株式会社組織になり、CIBA(チバ)と呼ばれた(1945年、社名もCIBA Limited となる)。CIBA社は、染料事業に続いて医薬品の生産、1925年には合成樹脂部門に進出。1934年にメラミン樹脂を発明、1943年エポキシ樹脂を開発し、製造販売に着手。1954年農薬部門、1964年に写真機材分野へ事業を拡大した。1970年にはGEIGY社とCIBA社が合併し,CIBA-GEIGY Limitedが発足している 。
 小さな染色化学工場だった同社は、1950年代前半に世界的な企業へと飛躍的な成長を遂げる。その最中の1951年に、ジェイムズ・K・フォグルマン(James K. Fogleman, 1919-)が、アメリカにおける同社の子会社、ニュージャージー州サミットのCIBA製薬有限会社のデザイン部長に採用された。
 フォグルマンは、長々しい社名の頭文字を取ったCIBAの4文字を、白抜きのエジプシャン体でパッケージに印刷するデザイン計画を推進した。これは今日では一般的だが、社名を製品イメージと結びつけるブランド化戦略であったと言える。製品は企業イメージの後ろ盾を得て、その信頼性が高められるのである。3種の書体が製品のアイデンティティ訴求のために使用された。フォグルマンはパッケージ(図1-3-1)をデザインするときの柔軟性において、この程度のスタイルと太さの多様性が必要だと考えた。
 1953年には、彼は販売促進に使用する印刷物において、標準化された長方形のフォーマットを採用するようにCIBA本社を説得した。当時はあまり使われない長方形によるモダンな面分割の認知度の高さという価値に加えて、経済性も採用の要因であった。つまりそのデザインはシリーズの製品全体に使うことができ、パンフレットなど数種類におよぶ販促用印刷物を一連の外観に統一すると、製作コストをかなり低減することができたのである 。
 この一連の要素を統一した外観にデザインするという考え方は、近代のCIデザインにおけるアプリケーション(展開)アイテムのデザインの基本となるものである。アイテムに一連の造形を与えることで、見る者に連続パターンによる強い印象を与えることができる。その連続性が正確であればあるほど企業の技術力を印象づけ、ひいては信頼性をも訴求できるのである。
 CIBA社の1953年の従業員国際会議においてフォグルマンは、「統合されたデザイン、あるいは企業の個性の統御された視覚表現の必要性と、それがCIの達成にとって演ずる大きな役割」について話した。バーゼルでの経営委員会では、「見解の統一性、明快さ、単一性のセンス」の重要性を説き、「今後、会社の性格と個性の統一された、あるいは集合的な表現へと結びつくような方針が必要である」と主張した。CIBAのバーゼル本社は統一的なCIの必要性に関心を示した。
 フォグルマンは、講演と著作を通じて、企業イメージの概念を普及させた。彼は広告を含む企業の情報伝達には2つの機能があると説いた。ひとつは、ある製品の宣伝や、連絡先を明示する、または本社所在地を明示するなどの直接的な情報伝達であり、もうひとつは、長期的視野に立てばそれよりも重要な機能となるかも知れない、企業の評判や企業イメージの伝達である。
 国際的に使用されたCIBA社のロゴは、バーゼルのフリッツ・ボイラーがデザインしたものが選ばれた。しかしCIBA社のCIデザインの重要性はロゴにあるのではなく、製品個装などのパッケージ類、名刺や封筒などのステーショナリー類、社屋看板や案内板などのサイン類、製品パンフレットなどの販促用印刷物、そして輸送用トラックなどの車両類にまで用いられるという、実に計画的で体系的な一貫性にある。この手法はまた、マニュアルに則ってそれぞれのアイテムをデザインすれば特に才能に優れたデザイナーでなくとも一定の質を維持することができるという利点を持っており、国際化し複雑な機構を余儀なくされ、企業イメージの管理が難しい大企業において好適であった。
 個性の発露としてのデザインの問題はさておき、前述のオリヴェッティ社、CBS社、CCA社の前期の例が抱えていた課題を克服しようとする、画期的な試みであったと言える。

<IBM社>

 電子計算機とソフトウェア開発の企業として現在よく知られているIBM社(正式社名: International Business Machines Corporation)の歴史は、電子計算機が開発される数十年前のパンチカードによるデータ処理機器の時代から始まっているが、同社ではトーマス・J・ワトソン・シニアを迎え入れた1914年を創立の年としている。
 1955年、創業者トーマス・J・ワトソン・シニアの長男であり当事社長であったトーマス・J・ワトソン・ジュニアは、デザイン最高顧問として、エリオット・ノイス(Eliot Noyes 1910-1977)を招き、IBM社の風采について議論した。結果は「視覚的印象が特別悪いというわけでは決してないが、よいともいえない。」というものだった。当時のIBM本社は、古典的な大理石やオリエンタルな絨毯によるインテリアに、近代的な電子計算機が置いてあるという状況で、それは当時のオフィスの傾向としてはおかしなものではなかったが、最新の機器を扱い技術的にも先進性のある集団としては不適当だった。
 しかしエリオット・ノイスは、マッチ箱からオフィス建築にいたるまで、特定の色、共通のモチーフの応用によって視覚的印象を与えることができるという意見には真っ向から反対した。彼は、IBMのデザイン・プログラムは次の二つの原則が必要だと主張した。一つは質(クオリティー)の反映であり、もう一つは常に同時代的(コンテンポラリー)であるということである 。この姿勢は、コーポレート・アイデンティティが単に形だけの統一から成されるものではないということの表明であった。
 IBM社はノイスの命題を確保するために、才能のある建築家やデザイナーを発見し、社内において彼らを正しく評価するようにつとめた。またノイスは、IBMのデザインに対する原則が一貫していれば、個々のデザイナーの創意を尊重するという方針であったため、建築家やデザイナーは同社の仕事を好んでするようになった(図1-3-2)。後のイーロ・サーリネン(Eero Saarinen)、マルセル・ブロイアー(Marcel Breuer)、チャールズ・イームズ夫妻(Charles and Ray Eames)などがその代表である。
 ノイスがその手始めに行ったのは、デザインの分野の中でもグラフィックが比較的安価で最も早い効果を得られると考えて、ポール・ランド(Paul Rand 1914-1996)をコンサルタントとして招くことだった。ランドがまず手をつけたのは、IBMのロゴタイプであった(図1-3-3)。この商標はシティ・ミディアムというスラブセリフの書体が基本となっており、この幾何学的なスラブセリフとBの中の二つの四角い穴が統一性と独自性を与えている 。しかしランドは、I、B、Mの3文字の幅が異なっていることを不快と思っていたようで、後に(1970年代)ロゴタイプにストライプを追加し、IBMの3文字により統一性を与えている。自身の著書でIBMのロゴに触れて次のように書いている。
「IBMのロゴタイプのストライプは原初的な図案に対する見る人の注意をひきつける。それは例外的な世界を持ったあたりまえの文字である。それは迅速さと能力を暗示しながら記憶しやすい。市場における最近のたくさんのストライプによるロゴタイプは、それ自体の効果を証明している。
 視覚的に見て、文字群上に付加されたストライプは、それらの形を結びつけようとする傾向がある。この事はIBMのように、一文字一文字が少しずつ幅広くなっていく、それ故デザインをする上で少々不愉快さを感じる、集結のない継続となっている文字群に対しては、大変役に立つ傾向である。 」
 このロゴタイプの管理に関しては、ポール・ランドの立案になる「IBM Design Guide」(図1-3-4)というマニュアルがつくられ、すべてのオフィスに備え付けられた。それには標準化された組み合わせ文字や、ネームプレートや、ディスプレイ用の書体などが明示されていて、IBMのすべての印刷物に、一貫したイメージを与えるよう配慮されている 。しかしその他のデザインワークに規制を加える条件をほとんど持っておらず、ロゴタイプは数種類用意された中のどれを使用してもよいという柔軟性に富むものであった。展開デザインデザインのマニュアルはなく、個々の場で常にノイスやランドらのコンサルタントと接触することをすすめていた 。
 しかしIBM社のようにオフィスや工場が世界各地に存在し、権限も分散している大企業では、相互間の連携とデザインの統一は非常に困難である。そのため全米をはじめ世界各地にデザインセンターが設けられ、各センターのデザイン・マネージャーらによる頻繁な会議によって、製品の背の高さを同じにするなどの共通ルールが設けられた。その間、ノイス自身が各センターを訪問してディレクションを行った。この動きを確かにするために、上記のロゴタイプの使用規定書を含むマニュアル「IBM Design Guide」が整備された。

 ノイスは、「柔軟性に富んでいながら、同時に確固たるシステムをもち、そのシステムの中にフィロソフィーが脈打っている。システムを確立するだけでなく、それを環境の変化に適応させ、常に保全していくように努力しているのがIBMのCIだ。 」と述べている。
 ここにおいて以下の条件のもと、筆者は現在の意味でのコーポレート・アイデンティティが成立したと考える。

【1】マーケティング [共通条件] …綿密な社内・市場調査による企業イメージの分析結果を基にする。
【2】システム [共通条件] …国際的な大企業にも適応する強堅な構造と複数の関与者に対応する柔軟性を併せ持つ。
【A】ウィット [固有条件] …デザイナーの創造性や機知を活かすことで企業イメージを表現しようとする。

 これらの条件のうち【1】マーケティング、【2】システムは、現代的な意味でのコーポレート・アイデンティティが成立するための条件として世界各国で文化・地域を問わず必要となるため[共通条件]とする。条件【A】ウィットは、主にアメリカ的なコーポレート・アイデンティティの成立を特徴づけるものであるため、[固有条件]とする。ポール・ランドの機知あふれる柔軟なロゴタイプのデザインは、【A】を象徴していた。

 エリオット・ノイスは、1950年代にIBM社、ウェスティングハウス社でアメリカのコーポレート・アイデンティティ成立に功績を残した後、モービル石油社にデザイン計画を提案するなど、その後の展開にも関わってくる。モービル石油社の場合は、グラフィックデザインにポール・ランドとのコンビではなく、1960年に「チェイス・マンハッタン銀行」のコーポレート・アイデンティティを手掛けたシャマイエフ&ガイスマー・アソシエイツ社(Chermayeff & Geismer Associates)を推薦しているが、同社は主に次章の「コーポレート・アイデンティティの展開」の時代において活躍の場を得ることになる。

<ブラウン社>

 ブラウン社の企業デザイン計画、すなわちコーポレート・アイデンティティは1955年に導入された。1951年にブラウン社の創業者マックス・ブラウンの後を継いだ息子のアルトゥール(Artur Braun)とエルヴィン(Ervin Braun)兄弟は市場調査を行い、彼らの製品であるラジオが当時の他社製品と同じように飾り立て、実際以上の価値があるように見せようとしていたこと、また自分たち以外にもそう思っている人が多いことに気づいたという 。
 彼らはフリッツ・アイヒラー(Flitz Eichler,1887-1971)博士をデザイン・ディレクターに招き、ウルム造形大学のハンス・ギュジョロ(Hans Gugelot, 1920-1965)およびオトル・アイヒャー(Otl Aicher, 1922-1991)らの協力を得てブラウン社の製品のデザイン方針を立案した。すなわち、「ブラウン社の製品は、その本質からいって道具です。野菜をくだいたり、粉をねりまわしたり、ヒゲを剃ったり、レコードを再生したり、フィルムを映したりする、というったようなものです。そうしたことをできるだけ完全にすることが、ブラウン製品の根本の使命です。」という考えであり、フリッツ・アイヒラーによれば、「機能こそがブラウン社の造形の出発点であり目的」であった 。
 また機能だけがブラウン社製品の唯一の特徴ではなく、秩序という原理を持ち合わせていた。製品のあらゆる部分が整理されたひとつの秩序をもって全体を構成しており、それによって調和と安定と精選とを重んじる、独特のイメージを持たせることに成功した(図1-3-5)。
 また、カタログなどの印刷物は、国際タイポグラフィ様式に則った合理的なレイアウトがなされていた(図1-3-6)。つまり数学的なグリッドシステムによるアンシンメトリーな紙面に、左の行頭のみが揃えられ右端は凹凸を残して組まれたサンセリフ書体。そして多くの広告によくあるような誇張された表現ではなく、事実のみを伝える目的のコピーと写真である。この厳格なデザイン・システムは、主にオトル・アイヒャーの手によるものであったが、そこには彼のデザインに対する倫理観が多分に盛り込まれていた。
 こうしたデザインに対する姿勢は企業内の人間関係にも反映され、決して各人が同じ意見を持つ家族のような集団ではなく、意見や性格の多様性からこそダイナミズムが生まれてくるという企業の倫理観を築いたのだった。
 かくて1951年当時、中規模の企業の域を出ていなかったブラウン社は、1957年と1960年の二度にわたるミラノのトリエンナーレでのグラン・プレミオ受賞や、1958年ブリュッセル万国博ですぐれたドイツ製品の代表として16製品の展示、1961年と1963年にロンドンのインタプラス最高賞、1959年ニューヨーク近代美術館に20世紀の最も美しい工業製品として陳列され1964年には全製品がコレクションされる など、デザインとともに文化的な企業価値を高めて行き、世界的な企業に育ったのであった。

 この後、ウルム造形大学は、オトル・アイヒャーを筆頭として他の企業との共同活動をはじめており、1962年のルフトハンザ社のコーポレート・アイデンティティにおける厳格なデザイン・マニュアル(図1-3-7)で真骨頂を発揮している。その特徴は、国際タイポグラフィ様式に共通して見られるところのデザインに対する倫理的な態度である。ここに現代的なコーポレート・アイデンティティが成立したのであるが、既にIBM社の項で論じた特徴であるところの、

【1】マーケティング [共通条件] …綿密な社内・市場調査による企業イメージの分析結果を基にする。
【2】システム [共通条件] …国際的な大企業にも適応する強堅な構造と複数の関与者に対応する柔軟性を併せ持つ。

この二点までは共通するものの、

【B】モラル [固有条件] …社会的な企業の倫理観を明らかにするデザインによって、企業イメージを高める。

という特徴に違いが見られることを指摘しておきたい。
 個別的なデザイナーの人格が前面に出ることを避け、デザインを通して全社会的な倫理的な態度を明らかにすることによって企業イメージを高めようとするのであった。その徹底ぶりは、オトル・アイヒャーがルフトハンザ社に提案したシンボルマーク案(図1-3-8)にも見ることができる。アイヒャーは、従来使用されていた同社の「鶴」の図柄がまだ個性的であると判断したのか、より無個性な単なる「矢印」とするように提案したのであった。しかしこれは当時の経営陣によって却下されている 。