2-1.1960年代 : コーポレート・アイデンティティ研究

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第2章 コーポレート・アイデンティティの展開

 コーポレート・アイデンティティは前章で我々が検証してきたように生まれ、1950年代にそれぞれの地域の特色を持って成立を見た。第二次大戦後の資本主義諸国の急速な経済成長は息継ぎをさせぬ勢いでその後のコーポレート・アイデンティティを牽引していった。つまりコーポレート・アイデンティティは、実際にはアメーバ運動のごとく継ぎ目なく成長・増殖して行ったのであって、成立時期と発展時期を厳密に分けることは困難である。しかし一応本論においては、前章で定義した二つの[共通条件]【1】マーケティング、【2】システム、を備えた1950年代を成立として見てとり、以下より、コーポレート・アイデンティティの発展を検証したい。

2-1. 1960年代

<CCA社 後期>

 1957年、CCA社はデザイン部長であったラルフ・エッカーストロムの指揮下で新しい商標を発表する。これは平坦なイメージでありながら、等角的な錯視によって業態を意味する立体的な包装に見えるという、ギミックで見る者の興味を引き起こすもので、ポール・ランド以来のデザイナーの機知を感じさせるものであった。(図2-1-1)
 同年入社したジョン・マッシーは1964年デザイン部長となり、彼の国際タイポグラフィ様式がCCA社のコーポレート・アイデンティティと結びついた。彼はCCA社の専用書体としてヘルベティカを採用し、すべての印刷物やサイン類のためにグリッドシステムを開発した 。
 アメリカのデザイナーの機知とヨーロッパで生まれた国際タイポグラフィ様式の混交はこの後の発展期にますます進み、コーポレート・アイデンティティの様式の地域特性は薄れてくるが、これは企業が国際化する上で当然の帰結であった。

<ウェスティングハウス社>

 1956年からのIBM社のプロジェクトに続いて、エリオット・ノイスとポール・ランドの協働は1960年のウェスティングハウス社のコーポレート・アイデンティティ・プログラムでもその能力を発揮する(図2-1-2)。
 電力事業と電気製品事業を行うウェスティングハウス社では社長と副社長というトップマネージメントが、同社で呼ぶところの「コーポレート・デザイン」の責任を持ち、コーポレート・デザイン部門が置かれコーディネーターという肩書きでリチャード・E・ハッパーツ(Richard E. Huppertz)がその責を任されている。この事実を勝見勝は次のように評価している。
「CCAの場合には、社長Walter Paepcke氏と、顧問Herbert Bayer氏の個人的な信頼から出発したものが、ウェスティングハウスの場合には、会社組織の一つの部局にまで発展している。(中略)アメリカにおけるdesign policyの理解が、ここ十年ほどの間に、どの程度まで深まったかという、ひとつの目じるしにもなるであろう。 」
  同社のコーポレート・アイデンティティ計画は建築や製品デザインにも及んだ。エリオット・ノイスはウェスティングハウス社のコーポレート・アイデンティティの最高顧問として、アメリカのトップクラスの建築家や工業デザイナーやグラフィックデザイナーを招聘した。なかでもポール・ランドはIBMでのノイスとの経験を活かし、この計画の主力となった。彼はウェスティングハウス社のためにデザインしたすべてのものを集約した「ウエスティングハウス・グラフィックス・アイデンティフィケーション・マニュアル(Westinghouse Graphics Identification Manual)」というマニュアルをまとめた。

<チェイス・マンハッタン銀行>

 1960年には重要なコーポレート・アイデンティティの事例が集中して制作されている。シャマイエフ・アンド・ガイスマー(Chermayef & Geismar Associates)社が手掛けた、チェイス・マンハッタン銀行(The Chase Manhattan Bank)のコーポレート・アイデンティティ計画もそのひとつである。
 同社のシンボルマークは、業態を表現する具象的なピクトグラフからはもちろん、アルファベット的な意味からも開放された抽象形で、赤、緑、灰、青の幾何学的な四つの要素が中心の正方形を囲む八角形だった(図2-1-3)。正方形を四方から包む形が安全や保護という意味を持たせているなど、見る者の解釈が必要な形態であり、それゆえに人々の注意を引いた 。
 それまでの銀行の典型は小さな窓を持つ権威的な建築物が多かったが、この頃から銀行業界はガラス張りでもっと親しみ易く、誰でもが入り易い銀行へと移行する傾向があった。チェイス・マンハッタン銀行のこの新しいコーポレート・アイデンティティはそれを実行に移す意図の表明として受け入れられた 。
 この後シャマイエフ・アンド・ガイスマー社は、エリオット・ノイスの推薦を受けてモービル石油のコーポレート・アイデンティティを手掛けるなど、この分野のエキスパートに成長して行く。

<ルフトハンザ社>

 アメリカにおいてノイスとランドがIBMの成功例をウェスティングハウスに応用したのと同様に、ドイツにおいてもウルム造形大学のオトル・アイヒャーはブラウン社での経験を活かして、1962年ルフトハンザ社のVIシステム計画を実施した。
 オトル・アイヒャーは、ハンス(ニック)・ローリヒト(Hans (Nick) Roericht,1932-)、トマス・ゴンダ、フリッツ・クヴェーレンゲサーおよびウルム造形大学卒業生でルフトハンザ社員のハンス・G・コンラートらの協力を得て、ウルム造形大学でこれの開発にあたった。国際タイポグラフィ様式の諸原理は、航空会社ルフトハンザのような国際的大企業が必要とするビジュアル・コミュニケーションの機能を満たすものだった。視覚要素の開発にはまず、旧来の企業カラーやデザインの分析からはじまった。新しいマークのデザインはされず1930年代から使われてきた鶴のマークが円で囲まれて洗練され、サンセリフのヘルベチカ体の社名は徹底的に字間を調整された。印刷物はグリッドシステムの採用とアンシンメトリカルな文字組みの指定がなされ国際タイポグラフィ様式を象徴していた。青と黄色のカラー計画、航空機の内外装、制服、包装、広告やポスターに使われる写真の性格まで徹頭徹尾管理された。(図1-3-7)
 これらのデザインシステムは非常に詳細なマニュアルによって管理され、あらゆる面において周到であったため、後のコーポレート・アイデンティティの規準のひとつとなった 。
 アイヒャーらしいザッハリヒな特徴は、ルフトハンザ航空のシンボルマーク開発過程においても見ることができる。アイヒャーはそれまで同社が使っていた鶴のマークを、単純な矢印にしようと提案したのである(図1-3-8)。しかしそれはルフトハンザの経営陣によって拒否されたのであった 。そこにはアイヒャーのデザイナーとしてのストイックなまでの倫理観を感じざるを得ない。このルフトハンザ航空におけるデザインマニュアルとその厳格なシステムは企業の倫理的態度を示すものとなり、国際タイポグラフィ的なコーポレート・アイデンティティの完成形に至った。

<ソニーと日本企業>

 1950年代アメリカにおいて、今日的コーポレート・アイデンティティが成立した頃、1954年に伊藤憲治がキャノン(Canon)のロゴタイプ(図2-1-4)を制作し、1955年には東通工がソニー(SONY)(図2-1-5)に社名変更しているが、国際市場進出を目論む日本企業のコーポレート・アイデンティティに対する関心はどのような状況であっただろうか。
 この頃の状況を紐解く資料として、浜口隆一、中西元男共著による『デザイン・ポリシー —企業イメージの形成』(美術出版社,1964)が上梓されている。この著書はソニーをはじめ、日本楽器、資生堂、サントリーなどと言った名だたる企業15社に直接インタビューして、当時の各社のデザイン・ポリシーを検証するものだった。
 その中でソニーの項を見ると、当時からソニーは9種の製品でGマークを獲得(図2-1-6)するなど既にインダストリアル・デザインにおける定評を得ていたが、当時デザイン室長であった大賀典雄(1930-)はソニーの抱えるIDの問題のひとつとして「まずデザインに関しては、デザイン室長が全責任を持ち、決してデザイナーに直接トップの人たちの指示が行われるようなことをしない。 」ということを上げている。これはデザイン責任者が経営者の信頼を得るということを意味しているのかも知れないが、ドイツのブラウン社において経営者がデザインを重要な経営課題であることを認識しているところから出発していることと比較すると、物足りないと言わざるを得ない。『デザイン・ポリシー —企業イメージの形成』の著者は「批判的要望」として次のように書いている。
「ソニーのデザイン・ポリシーのうち社外に対するものは、現在すでにある程度考慮されていて、一連の製品とか広告とかに視覚上の統一を与えて、SONYの文字を見るまでもなく、ソニー製品であることがわからせるような一種の造形上色彩上のソニーキャラクターの確立への努力がはらわれている。
 しかし他方、社内に対するデザイン・ポリシーということになると、これは現在もまた将来へ向かってもほとんど考慮されていないようだ。どうして、ソニーのようにデザインに理解のある企業が、外に向かってのみデザインの効用を考えるのだろうか。これはまったくもって疑問である。ソニーのように急激に伸びた企業においてこそ、社員の自社に対するイメージの統一をはかる意味でも、デザインの効用ともっと真剣に取り組んでいいのではなかろうか。(中略)今後の企業が発展して従業員の数がどんどん増していくことを考えれば、当然、社長から一般社員にいたるまでの共通理解のための客観的視覚的なイメージ統一を考えてもいいはずである。これは単に社内を固めるという意味からばかりでなく、もしソニーが社内、社外を通じてのデザイン・ポリシーの確立に全社をあげて力をそそぐならば、それはわが国ではまったく初めての試みであり(中略)その点でのパブリシティも大いに期待できるはずである。 」
 しかしこの著書が出版された1964年に大賀は34歳にして取締役に就任、1984年には社長に就任しており、この後経営課題としてのデザインを実践することになる。
 1966年には中西元男がTDKのデザインマニュアルを制作し、田中一光が共同石油のシンボルマークをデザインするなど、1970年代に向けて日本でのコーポレート・アイデンティティへの関心は徐々に高まってくる。後年にはソニーをはじめ、日本の主要企業は国際的に対応しうる明確なコーポレート・アイデンティティを確立して国際市場を席巻するのであった。

<国際イベントへの応用>

 1964年には東京オリンピックが開催され、勝見勝のアートディレクションによる競技ピクトグラムが開発されている。これはその後のオリンピックのサイン計画の礎となっており 、コーポレート・アイデンティティの視覚的統一手法がオリンピックのようなイベントで役立つことをいち早く示唆していた。オリンピックに限らず、万国博覧会などの大勢の人が集まるイベントでの視覚的コミュニケーションに役立つことは明白だった。日本では、1970年大阪で開催された万国博覧会のアートディレクターを大高猛(1926-2000)が務め、シンボルマークをデザインした(図2-1-7)。
 1968年のメキシコシティ・オリンピックでは、建築家ペドロ・ラミレス・バスケスを議長とする第19回オリンピック組織委員会は、ランス・ワイマン(1937-)、ピーター・マードック(1940-)らからなるデザインチームを結成し、広報から会場周辺の表示までの視覚的統一を試みた (図2-1-8)。
 こうした国際イベントへのコーポレート・アイデンティティの応用は、もちろんそれに関わる人々すべてに資するためであったが、そのイベントの成否によって開催国のイメージの向上ひいては国益に関わるという経済的な価値観から、目的を完全に切り離すことはできなかった。