2-2.1970年代 : コーポレート・アイデンティティ研究

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第2章 コーポレート・アイデンティティの展開

2-2. 1970年代

 1970年代に入ると、経済成長の波に乗ってコーポレート・アイデンティティの領域でも日本企業の巻き返しが始まる。

<パオスによる『DECOMAS』の出版>

 1971年、中西元男を中心とするパオス(PAOS=Progressive Artists Open Systemの略)が、『DECOMAS(Design Coordination as A Management Strategy)経営戦略としてのデザイン統合』を上梓した。理論の詳細については第3章で触れるが、この著書はその後の日本のコーポレート・アイデンティティの教科書ともなった。中西元男は<ソニーと日本企業>の項で書いた『デザイン・ポリシー —企業イメージの形成』の共著者であり、早くから企業の経営戦略としてのデザインの問題に取り組んでいた。パオスはその後も常に経営とデザインの問題に取組み、高度に体系化された理論によってコーポレート・アイデンティティを展開した。

<マツダ>

 広島の自動車メーカーマツダは1970年(発表は1974年)に、パオスのコンサルティングによってコーポレート・アイデンティティを導入した。これはパオスが提唱するDECOMASを実践する、日本における最初の事例となった(図2-2-1)。
 同社はまず東洋工業という社名を、それまで使用して市場に浸透したマツダへと変更し、コーポレートブランドを確立した。シンボル・ロゴタイプの綴りは「MAZDA」であり、国際市場においてヘボン式ローマ字綴りよりも英語を母国語とする市場において発音しやすいものとした。同社のシンボルを兼ねるロゴタイプのデザインはニューヨーク在住のレイ・吉村(1939-)が担当した。
 マツダの徹底したデザイン標準化のメリットを追求するコーポレート・アイデンティティ・プログラムの展開は、8年半に渡る長期プロジェクトとなった。

<ダイエー>

 量販店ダイエーもまた、パオスのDECOMAS実践の好例となった(図2-2-2)。1975年、相次ぐ大型店舗出店や独自の商品開発競争において、「コングロマーチャント」としてのアイデンティティを確立する必要があったダイエーはデザインシステムを統一する。急激な規模拡大に対応するため、出店にともなう販促・コミュニケーションなどの企画・実施作業を標準化・システム化することによって未経験者でもすぐに実務を運営でき、イメージやスタイルの統一を可能とした。
 ダイエーのシンボルマークは単純な円の一部を切り取って「D」を連想させる形態であり、これを連続使用して上手く企業イメージを訴求している。このシンボル・デザインには飯守格太郎、佐野寛、下河内護、松永真、森島紘、レイ・吉村の6名から合計26案が提出され、法的保護、イメージ条件および機能条件への適合、連想性など58項目にのぼる検討結果と社長中内功の1ヶ月の熟考の末、レイ・吉村の作品に決定したという。

<ミュンヘンオリンピック>

 1972年に開催された第20回オリンピック・ミュンヘン大会では、ウルム造形大学を離れたオトル・アイヒャーがデザイン計画の開発と実行の指揮をとった。
 ユニヴァース体が専用書体に選ばれ、言葉の壁を越えた視覚伝達機能を持つピクトグラムは、勝見勝が関わった東京オリンピックのものを基に再デザインされた (図2-2-3)。これらはやはり厳格なデザインマニュアルによって管理された。主にモノクロを好んだオトル・アイヒャーだった が、ポスター等には多様な色彩やハイコントラストの写真によって祝祭的な雰囲気が醸し出された (図2-2-4)。