2-3.1980年代 : コーポレート・アイデンティティ研究

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第2章 コーポレート・アイデンティティの展開

2-3. 1980年代

<日本のCIブーム>

 1980年代に入るとコーポレート・アイデンティティの事例は増々増殖するが、特に日本のバブル景気に向かう経済発展は爆発的とも言えるほどの事例を残した。この状況を田中一光は次のように書いている。「近年、日本の企業のマークやロゴの改新、変更というのがすさまじい勢いで進んでいる。1980年代も終わろうとしている現在においても、この「CI導入」というブームは少しの衰えを見せないばかりか、ますます隆盛をきわめている。毎日の新聞を見ていても、必ず一週にひとつやふたつの企業の新しいシンボルに出会う。変えなくとも、前の方がいいと思われるマークでも簡単に改廃されてしまって、当世風に気どった、いわゆるオシャレなマークが登場する。言いかえれば、それだけ日本企業に活力があり、それ以上に現代の日本の企業や日本人は時代の変わり目に敏感なのだ。ようやくにして、日本の企業も成長期の経済効率ばかりでなく、自社の身辺の姿かたちに気をつかうだけの余裕が生まれてきたのだから、それ自体よろこぶべき状況なのかもしれない。かつて川柳に『鐘ひとつ、売れぬ日はなし、江戸の春』といわれたように、今の日本も『CIの導入』の百花爛漫の時代をむかえているといえる。 」
 また亀倉雄策(1915-1997)は「…ここ数年の間にCIの旋風が巻き起こった。A社がやればB社も、B社がやればC社もといった連鎖反応は日本人の気質らしい。この不思議な現象は、次から次へと飽くことなく続く。朝、新聞に目を通すと一頁広告で企業がCIを導入した結果のトレードマークやロゴマークの告知である。(中略)このような企業とCIの関係はもちろん世界的な風潮ではなく、きわめて局所的な、早く言えば日本独特の現象である。ヨーロッパでもCI導入に真剣に取り組んでいる企業はたくさんあるが、しかし日本のように短期間に多くの企業が一斉にCI導入を競い合ったという例はない。例がないといっても結果的に見ると、確かにCI導入後の企業は新鮮で活気にみちているように見えるから不思議である。なかには枯れた木が蘇生したという例さえある。もちろん技術だから成功したり、失敗したりは当然だが、少なくとも企業の現代化には役立ったのではなかろうか。 」と手放しにではないが評価している。
 したがって1980年代のコーポレート・アイデンティティを検証するとき、日本企業の事例が非常に多くなる。またこの時期になると一つの事例の中に種々な様式が混交され、一概にその事例を分類することも困難になってくる。以下では、代表的な事例のみを取り上げて大きな流れを見て行くこととする。

<パオスとその実績>

 パオスは、1971年に『DECOMAS経営戦略としてのデザイン統合』を上梓し、マツダ、ダイエーなどの実績を残して、1980年代においても日本のコーポレート・アイデンティティの唱導者となった。
 ブリジストン社のコーポレート・アイデンティティ(図2-3-1)は、パオスが1980年に開発を始め1984年に発表された同社の創業50周年を機として導入が検討されたもので、以後日本において周年事業としてコーポレート・アイデンティティを導入する企業が増える前例となった。ブリジストン社の「限りなき前進 」という方針を体現するコーポレート・アイデンティティの導入は、当時の好景気への期待を反映していると言える。
 1982年のケンウッド社、1983年のバンダイ社、1984年の東京海上火災保険、1985年のNTT社、イナックス(INAX)社、1986年のリコー社、東レ社、象印社、住友銀行、そして1988年のぴあ、日本生命などを手掛け、まさに1980年代のコーポレート・アイデンティティを席巻したのであった(図2-3-2)。
 パオスはこれらの事例においてデザインシステムは社内で手掛けたが、シンボルデザインを外部のデザイナーに依頼することも多かった。例えば前述のマツダとダイエーではレイ吉村、バンダイ社では松永真、東京海上と日本生命ではシャマイエフ&ガイスマー(日本生命はアイバン・シャマイエフ(Ivan Chermayeff,1932-)、NTTでは亀倉雄策(1915-1997)、東レではペンタグラム(Pentagram)のコリン・フォーブス(Colin Forbes,1928-)らのデザインを採用している。パオスでは時にはコンペティションにより、またある時は指名依頼という形で、個性と才能を持つグラフィックデザイナーを起用した。
 これは『DECOMAS』がすべてアメリカ企業を例にとっていたこともあってか、厳格なデザインシステムの中においてもシンボルマークにはデザイナーの機知を求めるというアメリカ的な手法が自ずと取り入れられていたと考えられる。そしてパオスの手法はその論理性故に、日本のコーポレート・アイデンティティ手法に模範を示したと言えるような多大な影響を与えた。

 1980年代の日本の好景気は多くの企業にコーポレート・アイデンティティへの興味を喚起し、それらは当然パオスができる仕事の許容量を越えており、多くの日本のデザイナーがこれに関わった。
 主だったところでは、田中一光(1930-2002)は1981年には無印良品、1982年には西武セゾングループなどの広告・販売促進のためのブランド・アイデンティティ計画に携わり、永井一正(1929-)は日本デザインセンターにおいて東京電力のシンボルデザインやJA(農協)のシンボルデザインなどを手掛け、1971年に日清食品のカップヌードルパッケージをデザインした大高猛(1926-2000)は1983年同社の新シンボルをデザイン、五十嵐威暢(1944)は後に同社商標になるサントリーホールのシンボルをデザインした。日本デザインセンターの実績としては、1986年アサヒビール、1987年JR、1989年のトヨタ社などがあげられる(図2-3-3)。正に百科爛漫のコーポレート・アイデンティティ時代となった。

<日本企業における海外デザイナーの起用>

 パオスの例でも現れたように、1980年代は日本企業のコーポレート・アイデンティティのために海外のデザイナーを起用する例も多く見られた。
 1981年のミノルタカメラ社(1981年)のコーポレート・アイデンティティも、1978年が創業70周年になるのを機に導入したのだったが、CIブームの比較的初期に海外デザイナーを起用した代表例といえるだろう。ロザンゼルスに拠点を構えるソウル・バス(Saul Bass,1920-1996)がデザインしたシンボルは、楕円の中に線の太さが変化するストライプによって光学的なイメージを表現し、同社のカメラ産業という業態を上手く表していた(図2-3-4)。5本のストライプはそれぞれ、ビジョン、イノベーション、テクノロジー、クォリティ、コスモスという、企業理念を含ませてあるという 。また、あらかじめ再現表示するサイズによってストライプの本数を変えたものを用意しておき、例えば小さなサイズの印刷物や製品に刻印する際の「つぶれ」を防ぐ巧妙な手法が採られていた。同社広報部長・茂呂昇によれば、同社はソウル・バス/ハーブ・イエーガー&アソシエイツ社に支払った代金は約1億2,000万円であり、しかも当時の社内から高額だったという声を聞かなかったのだという 。これ以前にも、レイモンド・ローウィの「ピース」のパッケージデザインなど、日本企業が商標デザインに海外の著名なデザイナーを起用し高額な報酬を支払ったという例はあったが、特に1980年代にはコーポレート・アイデンティティの事例においてその傾向が顕著となる。前述した東京海上と日本生命のシャマイエフ&ガイスマーや、東レのコリン・フォーブス、紀文はソウル・バスを起用するといった具合だった。
 日本企業が好んで西欧のデザイナーを起用した理由には、国際市場に対応できるデザインによってグローバルに企業活動を進めるためということがあげられる。しかし当然それなりのコストも必要としたのだが、好景気による企業の高収益はその負担を軽いものにしたと考えられる。このように1980年代にデザイン文化の国際交流はさらに進み、ランドー・アソシエイツ( Landor Associates)のような国際的に活動するデザイン・コンサルティング会社の活躍の場も増え、コーポレート・アイデンティティ手法の地域差は解消して行った。

<AT&Tのシンボルデザインが示唆する時代性>

 アメリカの電話会社AT&Tは、1885年にグラハム・ベル(Alexander Graham Bell, 1847-1922)が創業したベル電話会社がその前身である。そのため1968年にソウル・バスによってデザインされたシンボルマークはベル(鐘)の形を表していた。しかし1984年、情報化時代が予期されるに至り、電話サービスに留まらずより広い業態の連想が可能なシンボルマークへと同じデザイナーによって変更された。ロスアンゼルス在住のソウル・バスは、ハリウッドにおける映画関係の仕事も多くこなしており、それゆえ映像的、立体的、光学的なデザインの機知を発揮した。「ベル型」に対して「地球型」と呼ばれる新しいAT&Tのシンボルマークは、ストライプの線の太さで明暗をつけることで球体を表現している。この新シンボルマークを訴求するためのアニメーション映像は、地球を連想させる回転する球体が電子ビットを集め、やがてAT&Tのシンボルマークになるという情報化時代を象徴するものだった(図2-3-6)。
 ところがこのAT&Tの新シンボルマークは、ソウル・バス自身が先にデザインしていたミノルタカメラ社のシンボルマークと類似しており、商標登録上の問題となった。前述の同社広報部の茂呂昇によれば、AT&Tとミノルタカメラ両社はこの問題についてお互いの領分を住み分けるということで和解したとのことであった が、デザイナーの責任については触れられていない。このように特定の著名なデザイナーに人気が集中することで類似したデザインが増えることもあった。また企業の経営が多角化して業態が曖昧になり、それまで具象的だったシンボルマークの形状が抽象的になることで各社のマークのデザインが類似するということもあった。これらの現象も当時のコーポレート・アイデンティティの時代性を示唆するものである。

<日本のグラフィックデザイナーの国際的活躍>

 この時期日本で活躍するグラフィック・デザイナーは、ポスターデザインなどでは既に国際的にも認められていたが、コーポレート・アイデンティティの領域において海外デザイナーが日本で活躍するほどの海外への進出はなかった。これは日本のデザイナーのデザイン力の問題というよりは、言語環境の違いによるハンディであったと考えられる。この問題を克服した海外活動経験のあるデザイナーはこの限りではなく、八木保(1949-)は1984年サンフランシスコのアパレルメーカー、エスプリ(図2-3-7)のアートディレクターとして渡米し、同社の企業イメージを高めた功績により86年にAIGA(American Institute of Graphic Arts)のリーダーシップ賞を受賞するなどの活躍をしている。
 しかし日本企業が西欧的な洒脱を手に入れようとしたのに対して、西欧企業が日本的もしくは東洋的な企業イメージを要求する例が少なかったことも、日本人デザイナーの海外進出が目立たなかった要因のひとつであろう。考えてみれば、欧米の企業が自社のアイデンティティを表すために敢えて日本のデザイナーに依頼することは不自然かもしれない。しかし日本の企業はアイデンティティを表すために欧米のデザイナーを起用することがあった。コーポレート・アイデンティティ・デザインのグローバルスタンダードは、西欧的なものであった。

<日本における地方博ブーム>

 好景気は気分を高揚させ、相乗効果によって営利企業だけでなく自治体などの公共組織の事業振興意識も高まった。1986年に東京都墨田区で開催されたCIフォーラムは、コーポレート・アイデンティティで「町おこし」を試みる取組みの事例であった。また1980年代の日本は地方博ブームといわれるほど各地で博覧会が行われ、経済的なうるおいと共に方向性はともあれデザイン文化も発展した。
 1975年の「沖縄海洋博 」を手本に、1981年の神戸での「ポートピア’81」が80年代の火付け役となり、「科学万博つくば’85 」、「ならシルクロード博’89 」、1989年には「’89海と島の博覧会・ひろしま 」、「横浜博覧会 YES’89」「名古屋デザイン博’89」などが開催され、1990年の「国際花と緑の博覧会 」まで広がった(図2-3-8)が、後にバブル経済の崩壊が叫ばれ徐々に消沈して行く。これらの地方博では、視覚的コミュニケーション手法としてのコーポレート・アイデンティティ手法が試されたが、経済効果だけを狙った刹那的で計画性のないデザインもあった。しかし地方博ブームのデザイン文化への効用は、デザインコンペティションによって多くのデザイナーが活動の場を得る機会を得たことにもあるだろう。
 またこの頃の特徴として、主となる無機的なシンボルマークとは別に副となる動植物や空想の生き物を擬人化したマスコットキャラクターを設定し、これをもうひとつのシンボルとしてイベントの広報や宣伝に利用するという手段が多用された。図2-3-9は「’89海と島の博覧会・ひろしま」においてデザインコンペティションの結果採用された筆者の制作によるマスコットキャラクター「アビ丸」である。このキャラクターは博覧会終了後、地元銀行のせとうち銀行のマスコットキャラクターとして現在も使用されている。

<大企業イメージへのアンチテーゼ アップルコンピュータ>

 1980年代は電子テクノロジーが発展した時代でもあった。コンピュータ業界では、アップルコンピュータ社が新しい企業イメージを市場に送り込んできた。スティーヴ・ジョブス(Steven Paul Jobs,1955-)とスティーヴ・ウォズニアック(Steve Wozniak, 1950-)の2人のコンピュータ・マニアによって設立された同社は、大企業にはない若々しい企業イメージを発信することに成功し、後のベンチャー企業のイメージづくりの手本ともなった。一口かじられた痕のある林檎のシンボルマークは、大企業の権威的で堅苦しいイメージを払拭する自由な雰囲気を持っていた。レジス・マッケンナ社のアートディレクターのロブ・ヤノフは、シンプルな林檎の図案の右側に一かじりを加えた。「一かじり」を意味する “a bite” とコンピュータの情報単位の “byte” をかけたのだという。最初はモノクロだったが、ジョブスがApple IIのカラー出力を印象づけるためカラー化を指示し、6色の横縞が追加された(図2-3-10)。
 アップル社のコーポレート・アイデンティティは、この林檎のシンボルマークのデザイン展開だけに頼ったものではない。創業者のひとりスティーヴ・ジョブスは、大学を中退し一時カリグラフィのクラスを専攻している。この時の経験が後のMacintoshコンピュータのOSにおけるフォントの美しさにつながったとジョブスは言う 。またMacintoshにはシンプルな美しさが必要だと考え、製品の表面には見えないはずの基板パターンさえ、美しくないという理由で却下してもいる。このとき、製作者に「もし君が大工で美しいタンスを作っていたら、人の見えない部分に合板を貼り合わせてごまかすようなまねはしないはずだ。」と喝破したという。ジョブスもまたデザインに深い理解を示し、高い美意識をもった経営者であった。しかしそういった彼の言動は常に体制への反骨精神が感じられ、それが独自の挑戦的な企業イメージを創り上げたといえる。

<世界のコーポレート・アイデンティティの状況>

 日本企業が国際市場を席巻する時代だったが、もちろん海外でもコーポレート・アイデンティティの展開は進んでいた。ただし、日本においてもそうであったように情報産業やサービス産業などの業態の事例が目を引くようになった。
 1986年には、ポール・ランドがネクストコンピュータ社のデザインを手掛けて話題となった。このシンボルマークデザインもまた、ランドの得意とする機知に富んだものであった(図2-3-11)。ネクストコンピュータ社は、アップルコンピュータ社の創立者のひとりであるスティーヴ・ジョブスが起業した会社であった。
 ボーイング社は50年程前(当時)に作られたロゴタイプを洗練し、1987年から詳細なデザインマニュアルの整備によって企業イメージを生き返らせた(図2-3-12)。このアイデンティティ計画は、リック・イーバー(Rick Eiber)デザイン社が担当した 。
 フランスでは、パリのオルセー美術館の視覚統一計画が行われた(図2-3-13)。デザインを担当したビジュアル・デザイン(Visual Design)社のブルーノ・モングッチ(Bruno Monguzzi)、ジャン・ウィドマー(Jean Widmer)らには、サインシステムにおける国際的な視覚コミュニケーションへの対応が要求された 。
 ヨーロッパではこの時期、派手に目立つコーポレート・アイデンティティの事例は少ないが、上述のオルセー美術館や次に紹介するロンドン交通局のように、タイポグラフィで徐々に企業イメージを創り上げていくような地道であるが確実なデザイン活動は続いていた。多くの日本企業がコーポレート・アイデンティティに素早い効果を期待していたのに対して、ヨーロッパのこのような地道なデザイン活動は、心理学的なアイデンティティという概念 が西洋から発祥したことを再認識させられる。

<ロンドン交通局-イギリス型>

 ロンドン交通局のビジュアル・コミュニケーションの問題については、20世紀初頭から始まっているが、1979年以降1980年代にはその大幅な改変があった年としてここに取り上げることにした。
 1900年から1902年にかけて、それまで6つの異なった会社が運営していた地下鉄を、チャールズ・ヤーキス(Charles Yerkes)が買収・統合し、ロンドン地下鉄会社(Undergrand Electric Railways of London Company Ltd)として発足させた。同社のフランク・ピック(Frank Pick ,1878~1941)は、作者不明であるが円形に横棒を重ねたマークを採用し、駅名表示などに可読性や認識性や環境によく馴染む新書体デザインを、カリグラファーのエドワード・ジョンストン(Edward Johnston,1872-1944)に依頼した。1916年、ジョンストン・アンダーグラウンドという書体が開発された(図2-3-14)。その効果は絶大で、ロンドン交通局こそ今日のコーポレート・アイデンティティの元祖と称されることもある 。
 1933年には全ての旅客交通機関を統合したロンドン交通局(London Passenger Transport Boardが設立され、このときハリー・ベック(Harry Beck, 1903-1974)によるロンドン地下鉄地図ベック・マップが考案された(図2-3-15)。これは世界中の地下鉄地図デザインに影響を及ぼす原型となった。
 ジョンストン書体は長く使われたが、もとよりディスプレイ用に作られていたため、パンフレットや時刻表などの本文用の小さな活字サイズには適応しなかった 。ジョンストン書体のフォント・ファミリーは、ボールドとミディアムの大文字だけしかなく、広報や宣伝活動用の効果的な書体開発が望まれていた。
 1979年、イギリスのバンクス・アンド・マイルス社は、このフォントデザインのために当時イギリスに留学していた河野英一(1941-)を採用し、ニュー・ジョンストン書体を開発した(図2-3-16) 。これによってロンドン交通局は新しいコーポレート・アイデンティティを得ることになった。このように1916年に原型が作られた書体を手直しし、バリエーションを加えるだけで企業イメージを改新しようと考えたのである。